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2022.07.15

the-schools

思春期に置石されたものを
25年後に改めて学び直す

アニメプロデユーサー、経営者
平澤 直さん

気鋭のアニメプロデューサーとして、また、自らのプロデュース会社、アニメ制作会社の経営者として活躍する平澤直さん。著作権法を学ぶことを足がかりに現在の立場に至るプロセスは、アニメ業界の中でも異色なものだったとか。全てが順風満帆だったわけではないけれど、その中でスキルを磨き、成長し続けてきた平澤さんのルーツはどこにあるのか。駒場東邦中学校・高等学校の時代から、その道のりを語っていただきました。

アニメオタクの少年が
夢を育んだ中高生時代

「小学4年生の時、自分には中学受験しか道がないと思い、勉強を始めました。親戚に高校受験をする子がいて、高校受験には内申点というルールがあることを聞いたんです。どうやら10人を超える先生にまんべんなく好かれないといけないようで、自分は生意気だから無理だなと思いましたね。それで学科試験の点数が合否判定基準の大半で、あとは面接でよほどの失敗がなければ合格できる中学受験を選んだんです」と、平澤さんは楽しそうに振り返ります。受験先に駒場東邦中学校・高等学校(以下、駒東)を選んだのは、電車の乗り換えの多い中学校に通っているお兄さんが大変そうだったから。自分は乗り換えなしで通いたい。そんな発想だったと言います。懸命な受験勉強の末、晴れて駒東に合格。中学1年生から水泳部に入部しましたが、その動機もまたユニークです。「受験勉強は大変でも、合格すればラクができると思っていました。でも、入学2日目に気づいたんです。『しまった! ここにいるのは、あのつらい受験勉強を乗り越えて合格した人間だけじゃないか』と。ということは、これからも勉強を続けなければいけません。そのためには体力づくりが必要だと考えたのです」と、平澤さん。週6日練習というストイックな部活をこなす毎日だったようですが、中学2年の時、平澤さんは運命的な出合いをします。それがテレビアニメ『美少女戦士セーラームーン』でした。もともと漫画やアニメ、ゲームが好きだったそうですが、セーラームーンに夢中になり、アニメオタクの道をまっしぐら。その後、テレビアニメ『新世紀エヴァゲリオン』でさらに深みにハマり、当時の担任の先生に録画したアニメを無理やり押し付けけるほどだったとか。「その頃のアニメオタクは、今よりも肩身の狭い存在だったはずですが、水泳部の部室にはセーラームーンの画集やグッズを置いていましたし、そのことでいじめられたことは一度もなかったですね。駒東は高校受験がなく、中学高校の6年間の途中で外部からの影響を受けることがありません。その中でのびのびと過ごせたことはありがたいことでした」。大好きなアニメとの出合いによって、平澤さんは「いつかは自分もアニメに関わる仕事がしたい」と思うようになったと言います。「ただ、美術の成績は低いほうで(笑)。描く人にはなれないけれど、アニメに関わりたいという気持ちはずっと持っていましたね」。

1994年 アニメオタクでもいじめられることもなく水泳部に在籍

1996年 駒東を語るうえで欠かせない体育祭優勝後に仲間たちと

ゼミで学んだ著作権法が
アニメ業界の足がかりに

平澤さんは、大学受験で文系を志望。早稲田大学法学部に入学します。「中高6年間男子校で、大学には駒東時代の知り合いはほとんどいません。大学に入学して初めて、『自分はオーストラリア大陸のように、周囲から守られた環境の中で育ってきたんだ』と実感しましたね。男子校の変わり者は共学校の世界ではかなりの不適合者だったんだと(笑)」。それでも、大学でのキャンパスライフを謳歌するために、モテたいという気持ちが強かったそう。「もちろん、そのままではモテないので、特殊技能を身につけなければと思いました。そこで目をつけたのが社交ダンスです。大学から始めても日本一になれるチャンスがある。しかも、女子の部員が多い。これならイケるのではないかと(笑)。ただ、途中で怪我をして諦めざるを得ませんでした。この頃が人生で一番辛い時期だったかもしれないです」と、平澤さん。しかし、落ち込んでいる彼に新たな転機が訪れます。「早稲田の法学部では、3年生と4年生の2年間、特定の法律をより詳しく勉強する「ゼミ」という形式の授業があります。その中に著作権法があったんです」。大学のゼミで学んだ著作権法の知識は、その後の平澤さんの進む道に大きく関わっていきました。就職活動でもその知識を活かし、アニメのDVDなどを販売するバンダイビジュアル(現:バンダイナムコフィルムワークス)にみごと就職。アニメを海外に売り込む海外営業に配属されたそうですが、アメリカ同時多発テロによって海外渡航は許されませんでした。海外営業から契約書を読む法務に移動し、新卒4年目から作品をプロデユースする仕事に関わり始めます。そして、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』というアニメ作品を担当したことが縁となり、手描きアニメの老舗スタジオであるプロダクションI.G(以下、I.G)に転職します。「英語で法務ができる、アシスタントプロデユーサーでアニメ製作がわかるというスキルを持っていたことがよかったのだと思います」と、平澤さん。I.Gでは法務とプロデューサー業の兼務を続け、新卒11年目にようやくプロデューサー専業に。それから2年後に世に出したアニメ作品『翠星のガルガンティア』は大ヒットになりました。マンガや小説などの原作をアニメ化した作品が多い中、同作がI.Gでは珍しいオリジナル作品でのヒットということもあり、平澤さんの名前は業界内外に知られるようになっていきました。すると、また平澤さんに大きな転機がやってきます。「今後のアニメ業界は、I.Gが得意とする手描きのアニメよりもCGアニメが主軸になっていくのではないかという仮説が芽生え、その知識を深めるために転職を考えました」。転職先は、3DCGアニメ制作会社のサンジゲンなど複数の映像制作会社を統括するウルトラスーパーピクチャーズです。同社でも大ヒットゲームをアニメ化した『モンスターストライク』のYouTube配信などに挑戦。実績に伴いアニメビジネスの取材を受けることも増えてきたと言います。「今がアニメ業界20年に一度の変革期かなと思い、その変革を加速させるために自分でリスクをとってみることにしました。2017年に、アニメの企画開発やプロデュースを主な業務とするアーチを設立。この社名には、新しい時代の門(アーチ)のようになりたいという思いを込めています」と、平澤さん。以後、数多くのアニメ作品を手がけ異業種とのコラボ作品なども生み出していきます。最近では、サウジアラビアとの国際共同制作劇場アニメ『ジャーニー』を手掛け、今日も世界中で上映されています。「最近は作品だけでなく作品をつくる会社までつくるようになりました。また、経営に携わるオファーもいただくようになって」と、平澤さんは言います。2020年には高いデジタル技術を誇るアニメスタジオ・グラフィニカの代表取締役に就任。そのほか複数の会社に役員として経営に参画しています。プロデューサーとして、経営者として、今のアニメ業界を牽引する存在となっているのです。

2015年 ドバイで開催されたフィルム&コミックコンベンション

2018年 ドイツ最大のアニメ・マンガのファンイベント「コンニチ」にて

「100人に1人」が3つあれば
100万人に1人の存在になれる

大学で学んだ著作権法を足がかりに、中学生からの夢であったアニメの業界で活躍する平澤さん。その足跡を振り返ると、キャリアを成功に導くアプローチがあるように感じているそうです。「例えば、英文の契約書が読めるスキルのある人は、100人に1人くらいはいると思います。同じように、アニメをヒットさせるだけの能力がある人、会社をある程度安定して経営できる人というのも100人に1人はいるでしょう。でも、この3つのスキルを同時に持っている人は、実はなかなかいないんです。100を3乗すると100万になります。つまり、3つのスキルを持つことで100万人に1人の存在になれるのです。これはアニメだけの話ではありません。成長を続けている分野・領域で、自分が直面した課題の解決を3回繰り返すと100万人に1人になれると思います」と、平澤さん。そして、今の自分があるのは、駒東時代の経験や学びから得たものが大きいと話します。「中学受験で成功した人たちの集団にいるとなかなか気づけませんが、実は継続努力できるというのは、それなりにレアなスキルなんです。駒東の学生さんたちには、入試で合格するために3年、4年と受験勉強を続け、ストレスフルな時間を耐えています。しかも、それで結果を出せた人でもあるのです。例えば、英語の契約書を読むとすると、専門用語があって最初は大変ですが、専門的な文書だけに使われる単語は限られています。この単語はこういう意味だということを300個も覚えれば、あとは標準的な英文法の知識で誰でも読めるようになるはずです。多くの人はやればできるのに、やりません。ですが、受験勉強を乗り切ってきた学生さんなら、コツコツと単語を覚える努力もできるでしょう」。実際に、平澤さん自身も、これまでの仕事の中で継続努力の重要性を何度も実感してきたそうです。「同時期にアニメ業界に入った仲間の中には、序盤は自分よりもセンスが良くて、偉い人に気に入られてどんどん出世した人たちがいます。でも、ある程度時間が経つと壁にぶつかったように成果が出せなくなったり、業界からいなくなってしまう人も少なくありませんでした。努力し続けることは、誰にでもできるわけではないのです。加えて、今は何でも移り変わりが激しい時代です。これが今すぐ役に立つという即物的な情報はすぐに陳腐化していきます。つまり、世の中を長い目で見ると、一朝一夕ではできないスキルや生活習慣を身につけるために努力を継続できることが大変な強みになるのです」。

「外の世界は駒東での6年間と同じようにはいきません。でも、そこで迷ったり失敗したりすることが、リスクを抑えて結果につながると思います」と平澤さん

25年後に気付かされた
駒東の教育の意味

「駒東で学べてよかったことは、この他にもたくさんあります。でも、大変だったこともありますね」と、これまでを振り返る平澤さん。「サラリーマンとして駆け出しの時期、自分の意見をはっきりと主張し過ぎて周囲との摩擦や違和感を感じることがありました。駒東時代に学び方を間違えたのかなと考えたこともあります。ただ、今となっては、それがよかったと思っています。最初は違和感があったとしても、徐々に環境に順応するようになると、今度は独自性というか、周囲との異質性が問われるようになるんです。『なんでお前は周りと同じことができないの?』から『お前はどうしたいの?』と変わってきます。そうすると、これまでうまくやってきていた人たちが急に足踏みをし始めて、自分の意見を言える人間にチャンスが与えられるようになるんです」。自分はどうしたいのか。意見を求められるそのベースには「お前は何者なのか?」という問いがあると平澤さんは言います。「自分は何者か。そのルーツはどこで作られたのか。改めて人生を見直すと、迷いながらも道を切り拓いてきた力は駒東で培われたものだと思います。駒東の先生は、テストで点数を取るテクニックだけでなく、点数に結びつかないような学びをたくさんくださいました。後から考えるとすごいことを言っていたなと。例えば、アニメの国際取引をする時、英語の菅先生が『英語を学ぶのは英語話者の考えを理解するためじゃない。日本人はこう考えるんだということを伝えるために学ぶんだ』と言っていたことを思い出してハッとしました。6年間の教育の中に様々な置石がされ、『人間とは何か』『幸せとは何か』という謎かけがされているとわかってきたんです。教育の効果は30年経たないとわからないといいますが、自分も卒業して25年経った今になって、思春期の頃から先生方のメッセージがそこに置かれていたのだとようやく気づいてきました。今は日々仕事に邁進しながら、それと並行するように、卒業から四半世紀後にして駒東に再入学させてもらったような感じがしています」。

平澤さんのインタビューに、小家校長と生物の堤先生も同席。二人とも、平澤さんが中高時代にお世話になった先生

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